私たちの暮らしにアートをどう身近に届けるのか?
インタビュイー伊東順二(美術評論家・アートプロデューサー・(株)ジェクスト代表) × インタビュアー枝澤佳世(アートのある暮らし協会代表理事)
この夏、開催について是非はあったものの、私達に多くの感動を与えてくれたオリンピック・パラリンピック。誰もが知る世界的建築家である隈研吾氏が設計した国立競技場でも数々のドラマが生まれた事は記憶に新しい。
さて、読者の方々の中には美術評論家の伊東順二という人物をご存知だろうか。40 年以上も前から、隈研吾氏の手がける複数の建築にアートの息吹を吹き込んできた人物であり、さらに言えば 1980 年代から日本に現代アートを紹介し、展覧会、美術館立ち上げやまちづくりなど、社会に現代アートを浸透させてきた人物なのである。伊東氏自身「終わったら忘れる人間なんで、出来上がったものにスタンプを押すようなことは好きじゃない」と言われるように、その功績の数々は一般にはあまり知られる事がないが、今回光栄な事にも伊東順二氏へのインタビューが実現し、伊東氏の「アートと社会」についての考えを伺うことが実現した。
富山市ガラス美術館の立ち上げ、ホテルロイヤルクラシック大阪の開業、太宰府天満宮表参道スターバックス店誕生秘話、フランス政府給費研究員時代、ヴェネツィア・ビエンナーレのキュレーション、アートの純粋な楽しみ方など多岐にわたるお話を伺った。
アートもオリンピックの競技の一つだった?!
ー オリンピックがちょうど今盛り上がっていますが、先生もご覧になられていらっしゃいますか?
(伊東氏)僕はスポーツ好きなんで、開催すべきだったかどうかという是非はともかく、スポーツもアートも同じ感性の産物ですから、その人達が活躍するのは嬉しいですよ。
ー 昔オリンピックは、アートもオリンピックの分野に入っていたというのを聞いたことがあるのですが。
(伊東氏)そうですよ、もともとギリシャ時代のオリンピアンというのは、一種の芸術と科学の神々に捧げるもので、スポーツとアートを分岐して考えていなかった。神々に奉仕する表現というか、科学と芸術も同じフィールドの中で扱われてきていました。
知の集合として、図書館を併設した美術館
(伊東氏)知の集合であったギリシャ時代のミュゼオンとリンクするのですが、美術館に図書館も併設されていたら、例えば、絵について知りたいと思ったとして、美術館で調べられることは本当にわずかなことでしかないから、それについて感動した熱い気持ちのまま図書館で知識を得られたら、なんて素晴らしいのだろうと思い、富山市からの依頼であったまちづくりの一貫として、改築予定だった図書館と美術館を同じビルに存在させた富山市ガラス美術館を作りました。
ー 素晴らしいですね。
(伊東氏)ここでは、雪が降っている時期でも市民の活動が色々と展開され、高齢者のための情報交換の場になったりしています。僕は、朝6時に集まってくる高齢者のために温かいものを飲めるといいだろうと思って、自動販売機も隈さんに依頼して作りましたよ。そういうふうに文化施設というのは外の生活とどうつながるかという事が大事だと思います。そこだけ区切られて独立するものではなくて、そこで皆さんが経験を集合させて、自分たちの暮らしに生かしていくことが正しい循環のあり方ではないかなと思います。
ー その後、まちづくりというか、そちらの方に広げて行かれたのですか?
(伊東氏)広げたというか、富山市ガラス美術館はまちづくりの結果なんです。 富山市の前に、長崎県美術館も立ち上げから携わり、館長もやっていましたが、美術館が冬の時代と言われていた時に成功しました。
その時感じたのは地域の持つ力ってすごいなと、地域に対する愛情や、地元で採用した長崎県美術館のスタッフも、施設に対しての誇りや愛着がすごかった。プロジェクト自体は隈さんと僕が代表して成功させたのですが、実際は地域の力がすごかった。海外でそれまで仕事してきましたが、日本で仕事してみたいな、日本の地域の力というものをもっと表現できる方法があるんじゃないかと思っていた所に、富山大学の芸術文化学部の創設をやってくれと言われました。そしたらさらに富山市の森前市長が、これからはコンパクトシティっていうまちづくりをしていくから手伝って欲しいとなりました。そこで言われたのは、富山はガラスが有名でガラス美術を基盤としたいが、私たちはハードウェアのノウハウはあってもソフトがない。そのソフトウェアの部分を考えてくださいということで、長年一緒にやりました。山手線のように街の中を循環するような環状線を作りましたので、その中心に文化施設を入れるというコンセプトを立て、最終的に富山市ガラス美術館を作ったんです。つまり、美術館は表現施設で最終的に入れたものなんです。
ー 地域の方をまとめるっていうのはとても大変なことだと思うのですが。
(伊東氏)はい、大変です。大変ですけれど、それだけ意欲を掻き立てられる。地域の人と一緒に仕事すると、最初は感性と感性がぶつかるんですよね、お互い理解してくると、お互い違うカルチャー持っているから、反対のカルチャーを吸収するんです。様々なことを問題解決するのは、一つの勉強でもあるし、学習するっていうのが全ての芸術の基本であると思う。人間のことを学ぶっていうのですか、そういうものを求めていかないとあまり生きていても面白くないじゃないですか、そういう刺激を与えてもらっています。その点では高岡市で行った手づくりとも言える金屋町楽市が一番心に残ってます。
ミュージアムホテルを作る
ー 先日、隈研吾先生が設計された、ホテルロイヤルクラシック大阪、“ミュージアムホテル”と いうことで話題になったホテルに伺わせていただいたのですが、館内には 180 点以上の作品がコーディネートされているということで、伊東先生が監修されたと伺いました。どういうコンセプトで作品を入れられたのか伺えますでしょうか?
(伊東氏)これはですね、当初はオーナーの斉藤さんが大阪の新歌舞伎座を隈研吾さんが設計するホテルに建て替えるというものでした。さらにオーナーの方は、跡地がホテルとなっても、大阪の人々にその場所が文化的発信の拠点であると認知されると同時に、記憶に留まるようにしたいとの思いがありました。また地域の人も同様にそういうものを欲していらっしゃるということで、ホテルの価値観以外の価値観、もしくは並行する価値観を考えた方がいいのではないかと最初にお会いしたときに伝えました。ちょうどお昼ご飯を食べている時でしたが、隈さんもいましたけど、世の中にホテル&スパとかはあるけれども、ホテル&ミュージアムがあってもいいのではないかという話になって、 それはすごく良いねとなり、看板も作り替えて「HOTEL&MUSEUM ROYAL CLASSIC OSAKA NAMBA」となったんです。多くの美術館がそうであるように、美術史史上有名な作品を持ってきたりしがちじゃないですか、だけどやっぱりここは大阪なんですよね。大阪の難波駅のすぐ近くのミナミという地区で、地元色が強いところなんです。そういう意味で地元で生まれ、かつ世界のトップを切っていた具体美術の作品をコアにしていこうと決め、さらにこれからの具体美術を作っていく若い力をハイブリットさせることができないかと考えたんです。普通の美術館ではそういうことはできないですが、ホテルという自由な空間だと、20代の若い作家から物故作家だけど、超前衛だった人たちが一つの空間に収められるんですよね、それがキュレーションというものの醍醐味じゃないかと思います。
ー そんな貴重な作品を私たちがこんなに身近で見ることが出来るというのは、大変贅沢ですよね。
(伊東氏)本当に贅沢ですよ。そのために持ってきて掛けただけではなくって、ここにどうしても写真が必要だなと、ではどういう写真作品にしようかと考えて、今これを作ったことが一つの文化的行為だから、それを撮ってもらった方がいいんじゃないかって、つまりこのホテルの写真作品自体をアートにすればいいのかなということで、芸大の博士課程にいる新津保君に頼みました。
アイドルの撮影とかもやっていて、建築を撮ったこともないんですよ。でも、そういう人がいいなっていう話になって、ホテルのために作品を生んでもらいました。他にも、石村大地君という芸大の講師をやっている若いアーティストにも依頼しました。卒業制作展で彼の作品を見つけ、「いくらか」と聞いたら、「1点も売れたことがないから分からない」と言われた。「でも君の(作品)は素晴らしよ」と言って、いざホテルに搬入しようとしたら、エレベーターに入らなくって、じゃあどこに置こうと言う感じで、レストランの前なら場所作れるなと置いたらすごく人気になりました。今、二点目は南三陸町で展示を待っていて、今度は4.5メートルある大きなものです。
若いアーティストの作品は、大部分がホテルのために書き下ろして作ってもらったものです。大家と、まさにこれからトップランナーになろうとしている人たち、その間を埋めるようなものをキュレーションの中で生かそうとしました。だからまとまりというものが崩れないでいるんじゃないかと思う。手前味噌ですけどね。
ー オープニングイベントで小松美羽さんがライブパフォーマンスされ、その作品も飾られてい ましたね。
(伊東氏)はい、ライブで描くって、どうなるかわからないんですよね。ライブで描くっていうことは、そこで呼吸して書くということだから、すごくいいなと思って。小松さんはデビューしたての頃から知っていますが、SNSで若い人から支持を受けるということは、この時代を表現しているということだし、それを僕たちは吸収しなくてはと思ってライブでやってもらいました。1時間のライブって普通は飽きますよね、でも集まった人は熱心に1時間釘付けになっていらっしゃった。
メディアとしての可能性を持つアートホテル
そして今、海外でこのホテルが評価されていて、今はとにかくコロナですけど、インバウンドの人たちが、具体もすごいけど、そこでまた富山市ガラス美術館のコレクションも発見してくれる。ホテルのメディアとしての可能性を追求していけるのかなとも思いましたね。美術館でアートの前を歩いて、たった数秒間で理解するのは不可能だけど、ホテルで長い時間を過ごすことで、それを作った感性が伝わっていくと思うんですよ。美術館でもそういったものは許されないから、ホテルを新しい表現ツールとして作ったのは間違っていなかったかなと思っています。
影響を受けずにはいられない場所
ー 新歌舞伎座の瓦なども、様々なところで注目されていますよね。細かな所にまで隈健吾さんの遊び心が感じられます。
(伊東氏)サイン計画など細かなところで隈さんが遊びたくなっちゃうのは、アートから色々刺激を受けてしまうからですよね。例えばそういう意図を汲んでロビーにはガラスのデイル・チフーリの色彩あふれる作品を入れた。彼は具体美術と同じような時代にアメリカでガラス技術の改革運動を起こしたような人なんですよ。
スタジオガラスっていう運動がガラスの世界にもあって、60年代というのは世界中で前衛美術が、その魂が続いていて、それが現在の現代美術に広範囲に繋がっています。中西夏之さんの作品や、元永さんもずっと並行して一緒に仕事をやっていましたが、当時の時代性というものを感じてもらおうと考えました。
ー 具体の作品が多いなと思っていましたが、そういうことだったんですね。
(伊東氏)具体は関西生まれで、もっと言えば具体美術は世界的に認められたのに東京の批評家からはみんな否定されたんです。それで海外に行くしかなかった。私はパリに長いこと住んでいたんですけれども、そのころに具体美術のコレクションをやっている所はたくさんありました。40 年ぐらい前の話ですけど。まだ具体がこんなに有名になっていない時に、監修の一人に私も加わって世界最大の具体の展覧会「GUTAI」をパリ国立現代美術館でやった。その頃は皆さん生きてらっしゃって、田中敦子さんが電気服の パフォーマンスもやりました。その展覧会自体あまり知られていないのですが、ものすごく歴史的に大事な展覧会だったんです。
具体美術が引き寄せたスターバックスとの縁
(伊東氏)隈さんと二人で太宰府天満宮にスターバックスを作った時の話なんですが、太宰府天満宮に土地を持っている方から話があり、地域の人に役立つ建物を作ってもらえませんかと相談を受けました。そこはお土産屋さんばかりで、人がほっとする場所がないと思って、広場を作ろうと提案したんです。でも、やるんだったらカフェぐらい作らなきゃと思って、まず隈さんに相談し、では運営はどこに頼もうとなりスターバックスに話してみたら、是非やりたいとなり実現しました。なので、この建物にはプロデューサーには私の名前が、施主は誰で、建築家は誰でと言うのが書いてある。これはすごく成功して、人がものすごく押しかけました。街の人がふと立ち寄れるようにしたかったんで すよね、だから、スターバックスのシンボルマークもスターバックスに話をして小さくしてもらった。この考えはアメリカのスターバックスの考えと近いらしくて、元会長兼社長兼最高責任者のハワー ド・シュワルツさんに呼ばれてアメリカに隈さんと2人で行きました。そしたらすぐ「見てくれ、見てくれ」と CEO 室に呼ばれて、部屋に入ったら壁にかかっていたのが白髪一雄さんの作品だった。 「伊東さん、以前に具体の展覧会やったでしょう?僕、カタログ持ってます」と言われた。あーわかっていたのかと。色んな事が、色んな所で結びつくものです。
現代アートを発表する場を作りたい
そもそも私は、フランスの給付留学生としてパリに行きました。給付研究員でもあったのですが、研究員はフランスに対して何か提案をしなくてはいけないんです。そこで、日本でフランスの現代美術を周知してもらうために、何かプロジェクトを考えてくれと言うのがミッションでした。でも、展覧会だけ日本に持っていっても理解されるはずがないから、美術だけではなく様々な分野のものを人も含めて一緒に連れていくといいなと思い、フランス現代芸術祭というプロジェクトを考えました。その時に日本のパートナーを引き受けてくださったのが、セゾングループの堤清二さんでした。その他、朝日新聞と大原美術館が色々な施設を用意してくださって、そのために日本に帰国しました。その時につくづく感じたのは、現代芸術を表現する場所がない、そういう場所から作らなければいけないという事でした。当時、キースヘリングやジュリアン・シュナーベル、NYやヨーロッパのニューペインティングを紹介していたんですが、それをやれるところが渋谷西武の8階の催事場とかだったんです。しかも、やらせてもらう為に渋谷西武や西武百貨店の企画も考え、例えばパリフェア、NYフェアとか考えてその代わりに催事場で好きな展覧会をやらせてもらいました。その結果、色々な経験や繋がりを持つ事ができ、その後青山スパイラルや原宿クエスト、横浜ランドマークホールを手掛けました。色々な場所にアートが吸い込まれるようにね。今でも三菱地所と一緒に藝大アーツインというものを丸の内で毎年2週間ぐらいやっていますし、街でやる事自体が、本来は正しいと思うんですよ。結局僕らが見たNYの新しい動きとか、現代美術もそうですけど、街中で発想されたものじゃないですか、生のところで見せるのが一番インパクトがあると思う。
ヴェネティア・ビエンナーレの日本政府コミッショナーとして
ヴェネツィア・ビエンナーレの日本政府館のコミッショナーに選ばれたときに茶の湯「数奇」っていう概念を形にする展覧会をやりました。現代の中で切って、いろんな多用的な表現を一緒に見せるというものです。当時無名だった千住博君とか、日比野克彦君、崔在銀君とか隈研吾君も無名だったし、 若い皆にそれぞれの表現を1つの館の中で繋がって展示したいと思いまして、外を崔在、中を隈研吾で、水の上に展示するという大胆な発想でした。その年はヴェネツィア・ビエンナーレが史上初めて民間の協賛金を得た展覧会で、35 社ぐらいの民間の会社が協力してくれましたが、それでもとんでもない工事をした展覧会だったので、予算が足りなくてホテルにも泊まらずアパートを借りてみんなで一緒に暮らしました。一生の中であんなに貧乏なことはなかったですね。展示企画は日本で毎日のように叩かれて、それでも結果的には賞を取ったりしたけど、芸術の世界に疲れちゃったからこれからはもうキュレーションはやめようと思ったんです。でも新しいとか、人がやったことがない事を頼まれると、いてもたってもいられなくなってしまう。僕、職業や肩書きがしょっちゅう変わるんで、そして時としてそれのどれも当てはまらなかったり、とにかく自由でいたいんですよね。だから、アートのある暮らしも大事だし、アートな暮らしも大事だと思います。自分が自分をクリエイトする、そういうことをやるためには自由でなくてはいけない。色々な美術館を作るけれども、その次に新しいプロジェクトを考え始めたら、それに没頭すると。大学のスタッフも事務所のスタッフもみんな苦労しているとは思うのですが、自由にやらせてもらっています。
アートは無名の方がいい!?
ー それがアートから受ける恩恵というか、アートの役割なのでしょうか?
(伊東氏)アートの役割って、選ばれた人だけが持っているのではなくって、人類全員が持っている感性だからこそ響き合うと思う。でもそれを表現できる人は限られる。なぜアーティストが尊敬を集めるのかというと、みんなの心を代弁できるから。個人の影響や利益を考える分野ではないんです。ただそう言う価値観に陥ってしまうところがありますよね、昔いくらで買ったのがいくらになったとか、財をなしたとか、そもそもそう言うことを考えてやっているわけではないんですよ。やっているとしたら、商行為であって、それとこれとは別の話。自分が一番わかるのは、自分で表現すること、それが一番面白いと思うけど、それにはスキルや環境が必要だったりする。でも自分の暮らしだったら失敗も許されると思うから、ぜひ自分でクリエイトするということをトライしてもらいたいなと思います。
ー つまりそれは、アートを身近にするということですよね。
(伊東氏)そうですね。例えば人の作品を飾っても、好きな作品でいいと思うんです。これが本に載っ ていたからとか、世界で話題と言うことに根拠はないです。自分の家は自分の空間であるし、一生 手放さないというぐらいの愛情がないとね。僕はだから色々買いますし、手放すかって言うと手放 すことはほとんどないです。
ー じゃ先生も、ご自宅で現代アートを飾られて楽しまれてるんですか?
(伊東氏)いや、それは一緒に住む人との感性と違うから(笑)。倉庫に入れたり、大学の研究室に飾ったり、自由に飾ってくださいと言ってくれるところに飾ったりもします。学生の作品も買ってあげたりしますが、自分の目の訓練だから、相手は無名の方がいいです。その方が自分の価値観、感性だけを頼りに手に入れることができる。例えば、草間さんの昔全然売れなかった頃一緒に展覧会もいっぱいやりました。ポンピドゥー・センターの館長が友人だったので、君が決済できる範囲でいいから買ってくれと言って買ってもらったのが、センターに入った最初の草間作品です。僕の友人たちには無理やり買わせたんだけど、今やそれだけで生活ができるようになっていますよ。僕自身は1、2点しか持っていないし、気分で掛けたり掛けなかったりするのが楽しいですね。
被災地をアートで支援
(伊東氏)一番印象に残っているのは、復興の仕事に打ち込んでいた時期。芸大の学生達を招いて、昔の映像を見ながらその場で発想した作品を作り、自治体に寄贈したりした事です。それは金銭的な価値ではなく、経験という名の価値で、自分の中で大きな価値になっています。
ー 今日は貴重なお話が伺えました、本当にありがとうございました。
地域性に重点をおきながら、社会にアートを広めてきた伊東氏。一番の理想の状態が「隠居」、「住所不定」と屈託のない笑顔で語りながらも、肩書きにとらわれず、新しいものをクリエイトするために「自由」な状態を保ち、新しくかつ世の中にないようなプロジェクトに全力で取り組んできたか らこそ放てる言葉なのだと感じた。日本のアートを裏で牽引してきた伊東氏、今後さらに若手アーティスト、学生を巻き込みながらどんな新しい事を仕掛けていくのか非常に楽しみである。
伊東 順二 プロフィール
美術評論家・アートプロデューサー
1953年長崎県生まれ。早稲田大学仏文科大学院修士課程修了。アート、音楽、建築、都市計画など分野を超えたプロデュースを多数手がける。
’95年「ベニス・ビエンナーレ」日本館コミッショナー。’97年パリ日本文化会館開館企画「デザインの世紀」展コミッショナー。’00年~’01年「文化庁メディア芸術祭企画展」プロデューサー。’02年仏政府「芸術文化勲章(シュヴァリエ)」受章。’04年~’13年富山大学教授。’08~’12年高岡市「金屋町楽市」実行委員長。’11~’13年「九州芸文館」アートプロジェクトプロデューサー。’17年「再現 釈迦三尊像展—飛鳥が告げる未来—」キュレーター。’19年「HOTEL & MUSEUMロイヤルクラシック大阪」アートプロジェクトキュレーター。前長崎県美術館館長。パリ日本文化会館運営審議委員。国際茶道文化協会理事。富山市政策参与。富山市ガラス美術館名誉館長。新福岡県立美術館基本計画策定委員会会長。東京藝術大学特任教授。
この記事を担当したアートライフスタイリスト
岡本紗英子:インテリアデザイナー、アートライフスタイリストとして活動しながらも、前職のPRコンサルタントとしての豊富な経験を生かし、アート、インテリア業界を専門とするフリーライターとしてインタビュー記事、PR記事、プレスリリースなどを手がけ、クライアントの認知度向上に貢献している。
2021年11月23日掲載
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